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聖ユスチノ殉教者      St. Justinus Mart.            記念日 4月 14日



 第二世紀の聖ユスチノは初代キリスト教会に於ける最も有名な聖人の一人で、その事跡も聖人自身がものにした記録によって比較的明瞭に知ることが出来る。

 彼はパレスチナのシケムに生まれた。この町は紀元七十年ローマ皇帝ティトの軍勢が聖地に侵入のおり、エルサレム市と同じく廃墟と化したが、その後ローマ及びギリシャの移民が続々その地に入り込み、ユダヤ人を圧迫した。ユスチノの父もかかるギリシャ移民の一人であったのである。

 両親共にキリスト教の信者でなかったのでユスチノも偶像教の迷信を抱いて人となったが、青年時代から極めて真面目な性質で、思索を好み真理を求める心を持っていた。為に緒々の哲学者にも師事し、緒学派の書物も読んで研究したが、ストア派、ペリパテト派、ピタゴラス派、プラトー派の学説も彼に十分の満足を与えることができなかった。
 その結果彼は懐疑論に陥ってしまったが、ある日瞑想にふけるべく海辺へさまよい出ると、一人の老人に出会った。見れば如何にも敬虔らしい品のある人なので、彼もそぞろ尊敬の念を起こし、わが思想上の悩みを打ち明けた所、老人は大いに同情してキリストの聖福音書及び旧約の預言書を読んでみるが良いと勧めてくれた。でユスチノはその言葉に従ってキリスト教を研究してみるとかつて知らなかった不思議な心の平安を覚えたので、遂に三十歳の時洗礼を受けた。なお、彼は自分を導いてくれたあの老人に、是非もう一度逢いたいと心がけたが、その後はついぞ見かけなかったという事である。

 入信後のユスチノはキリスト教の説を最優の哲学として奉ずるのみならず、また最優の宗教、最優の道徳として日々実行し、単に義務を果たすばかりでなく進んで功績を積もうと努めた、されば彼は他人を聖教に導こうと思い立ち、衆人の目を引く為にわざと哲学者のマントを着し、小アジア、ギリシャを経てイタリアに入り、その町々を廻ってローマに至り、富豪ティモティオの設けた大浴場の付近に学校を開き、一般哲学を教えると共に天啓による真理としてキリスト教をも伝えた。かくていつか彼を中心とする信者の団体も出来、団員は彼を師父の如く尊敬した。ただしユスチノが司祭であったか否かは定かではない。

 二世紀の中頃ローマ帝国を治めたアントニオ・ピオ皇帝は、性温厚柔和にして比較的キリスト教に対し寛大であったが、ユダヤ人等の讒言を信じて迫害を始めようとしたから、ユスチノは大いにこれを憂い、護教論をしたためて皇帝に上書した所、皇帝はその理路整然たるにいたく感じ、捕らわれたキリスト教徒等を釈放せしめた。しかし次のマルコ・アウレリオ皇帝は再びキリスト教を迫害し出したので、ユスチノは身の危険をも顧みず又も護教書を奉ったが、皇帝は真理をわきまえぬばかりか、まえにユスチノと討論して破れたクレセンスという哲学者の讒訴に乗せられて、ユスチノとその弟子数人を捕縛せしめるに至った。

 さてユスチノとその弟子達はローマ市長ルスチコの許に引かれ、棄教を命ぜられたが、勿論断固としてこれを拒んだから、何れも鞭打ちの後斬罪に処する旨の宣告を受けた。彼等は聖教の為に致命し得る名誉を喜び、ユスチノが先に立って詩編を歌いつつ処刑場に急ぎ、潔く刑吏の振り下ろす斧の下に花と散り、栄えある殉教の月桂冠を受けた。時に165年4月13日の事であった。

教訓

 学者にして信者たりし聖ユスチノは、その該博な知識を傾けて布教に尽くした。その功労はローマ殉教録に「彼は忠実なる舌によって豊かな報酬を受けた」と賞賛しているほどである。我等もユスチノの如く天主に与えられた能力を利用して応分の布教に努めよう。そうすれば又彼と同じく忠実な者として、豊かな報酬を恵まれるに相違ないのである。